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東京地方裁判所八王子支部 昭和63年(ワ)389号 判決 1991年9月26日

原告

甲野一郎

甲野二郎

甲野春子

右三名訴訟代理人弁護士

杉井静子

山本哲子

被告

羽村町

右代表者町長

井上篤太郎

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第一請求

被告は、原告甲野一郎(以下「原告一郎」という。)に対し金四九四万〇一八二円及びこれに対する昭和六一年一〇月三〇日から支払済みまで年五分の割合による金員を、原告甲野二郎(以下「原告二郎」という。)及び同甲野春子(以下「原告春子」という。)に対し、各金一〇〇万円及びこれらに対する昭和六三年三月一一日から支払済みまで年五分の割合による金員をそれぞれ支払え。

第二事案の概要

本件は、羽村町立羽村第一中学校(以下「羽村一中」あるいは単に「学校」ということがある。)の三年生であった原告一郎が、昭和六〇年九月一七日から学校への登校を拒否したことについて、原告一郎の同級生であるA(以下「A」という。)及びB(以下「B」という。)らのいわゆるつっぱりグループから継続的に執拗な暴力を振るわれるなどのいわゆる「いじめ」を受けたことにより自律神経失調症に罹ってしまったことが登校拒否の原因であって、学校側が原告一郎に対する安全配慮義務を怠り、Aらによる前記いじめの本質及び深刻さを理解せず、いじめを防止する努力を怠り放置するなどしたために、原告一郎をして登校拒否をするに至らしめたものであるとして、羽村一中の設置者である羽村町に対し、原告一郎が、主位的に安全配慮義務違反、予備的に国家賠償法一条に基づき、右自律神経失調症の治療費や通院交通費、カウンセリングを受けるための交通費、母親である原告春子が原告一郎の登校拒否により仕事を休まざるを得なくなった休業損害、慰謝料及び弁護士費用の合計四九四万〇一八二円の損害賠償を、原告一郎の両親である原告二郎及び同春子が、いずれも国家賠償法一条に基づき、本件により被った精神的苦痛の慰謝料として各一〇〇万円の損害賠償をそれぞれ請求するものである。

一争いのない事実及び容易に認定し得る事実

以下の各事実は、証拠を摘示したもの以外、当事者間に争いがない。

1  原告一郎は、昭和五八年四月、羽村一中に入学し、一年次は三組(担任は上代仁紀教諭)、二年次は四組(担任は小関仁志教諭)、三年次は四組(担任は金子あけみ教諭。現姓坂本。以下「金子教諭」という。)に所属し、昭和六一年三月、同校を卒業した。

2  原告一郎が所属していた三年四組には、同級生として谷合公治(以下「谷合」という。)、伊城和美、A、B、C(以下「C」という。)らがおり、中学三年生当時、AやBは身長が一六五から一六八センチメートルあるのに対し、原告一郎は身長が約一五〇センチメートルしかなく、Aらに比較し体力が劣っていた(<証拠>)。

原告一郎が三学年に在学していた昭和六〇年四月から昭和六一年三月まで、羽村一中の校長は枇杷田隆、教頭は池田正美、三年学年主任教諭は小川恭光であった(乙第八)。

3(一)  原告一郎は、中学二年生に在学中の昭和五九年一〇月二六日、技術科の授業中に同級生のD(以下「D」という。)に製作中の座椅子で後頭部を殴られて負傷した(以下「座椅子殴打事件」という。)。

(二)  原告一郎は、昭和六〇年四月一一日、中学三年生になって最初の保健体育科の授業の際、突然、背後からAに腰部を飛蹴りされる暴行を受けた(以下「飛蹴り事件」という。)。

(三)  原告一郎は、同月、羽村一中の生徒会役員選挙において、副会長に立候補し、当選した。

(四)  原告一郎は、同年六月一八日、二時限と三時限の間の休み時間に、Bにいわゆるアーミーナイフの鋏の部分を出し「髪の毛を切ってやる。」と言われて追い掛けられ、トイレに追い込まれAやBに殴る蹴るなどの暴行を受けて負傷した(暴行を加えた者の人数、暴行の態様、傷害の内容については争いがある。以下「ナイフ事件」という。)。

4  原告一郎は、同年九月一七日、学校を無断で欠席し、以後登校を拒否した。

5  原告一郎は、昭和六一年三月二〇日の羽村一中の卒業式に出席せず、同月二五日、校長室において、教頭や三学年の教員の立ち会う中、一人で校長から卒業証書の授与を受けた。

6  原告一郎は、昭和六〇年一二月から昭和六一年二月にかけて、昭和鉄道高校、堀越学園高校、越生高校、都立高校及び科学技術学園高校を受験し、都立秋留台高校と科学技術学園高校に合格し、昭和六一年四月、科学技術学園高校に進学したが、昭和六二年三月三一日付をもって同校を中途退学した。

二争点

1  羽村一中の状態

(一) 原告らの主張

(1) 羽村一中は、昭和五六年ころから、いわゆるつっぱりグループが次々と形成され、生徒が教師に暴行を振るったり、グループ同士の対立抗争が激化し、いわゆるいじめや非行、器物損壊の事件が発生するなど、校内の暴行、傷害事件が頻発する「荒れた学校」の最たるものであった。

(2) 羽村一中の昭和五八年三月の卒業式は、パトカー三台が警らする程の異常事態であり、同六〇年三月の卒業式の前日には生徒ら数名により放送設備が破壊され、並べた椅子を倒されるなどし、放送委員であった原告一郎らが夜間遅くまで修復したことがあった。

(二) 被告の認否

(1)のうち、羽村一中において、数件の器物損壊事件が発生したことは認めるが、その余はすべて否認する。(2)の事実は否認する。

2  原告に対するいじめ

(一) 原告らの主張

原告一郎の三年次の同級生であるA、B、Cらは、いわゆるつっぱりグループを形成し、このグループは、髪形や服装等が一見していわゆるつっぱり風であり、常時数人で行動し、学校のプールの裏や保健室をたまり場としており、喫煙、暴力行為、遅刻、授業からの抜け出し、下級生へのズボン売り付け等の問題行動があとを絶たず、とりわけ、Aは暴力的で粗暴な性格であり、校長ら学校側も問題行動を起こす生徒と認識していた。これに対し、原告一郎は、正義感が強く、真面目で、何事にも積極的に取り組むため級友からの信頼が厚く、このグループの標的とされ、次のとおり、原告一郎が三年生になってから登校を拒否するまでの間、種々のいじめを原告一郎に対し加えた。

(1) 昭和六〇年四月一一日、三年生になって最初の保健体育科の授業が開始して生徒が整列し、講師の吾郷博昭教諭が前に立った直後、Aが突然背後から原告一郎を飛蹴りし、原告一郎は腰部を強く打ってうずくまり、同級生らに保健室に運ばれ、授業に復帰することはできなかった。

(2) A及びBは、原告一郎が羽村一中の生徒会副会長に就任した後の同年五月ころ、原告一郎に対し、服装や持物等を規制した生徒会発行のポスターについて「こんなことやるんじゃねえ。」と言い、また、「このビラについて聞きたい。」と言って呼び出し、殴る蹴るの暴行を加えた。

そして、原告一郎がそのことを学年主任の小川教諭に話すと、A及びBは、今度は「チクッた(『告げ口した』の意)。」と言って原告一郎を殴った。

(3) A、B及びCは、原告一郎に対し、自分達を「君」や「様」を付けて呼べと強制した。

(4) 同月下旬ころ、原告一郎が羽村一中の校庭を歩いていると、何者かに校舎の二階の教室の窓から机が投げ付けられ、原告一郎の僅か数十センチメートル後方に落ちたことがあった。

(5) 同年六月初旬ころ、何者かに原告一郎の学生服が盗まれ、学校のプールに投げ込まれた。

また、何者かが原告一郎の背後から学生服を鈎裂きにしたことがあった。

(6) 同月一一日から一三日までの羽村一中の修学旅行の際、A及びBは、原告一郎のカメラを無断で使用した。

(7) 何者かが、三年四組の教室の黒板に、「甲野のバカ」、「甲野のチクリ」などと原告一郎を中傷する言葉を大書した。

(8) A及びBは、授業中、教科書や消しゴムを原告一郎に投げ付けた。

(9) 同年五月ころから、Aらつっぱりグループの原告一郎へのいじめはエスカレートし、連日繰り返され、朝、原告一郎が登校すると「お前生意気だ。」などと言って殴られ、下校時には、教室から出た廊下でいきなり殴られ、そして蹴られ、また、つっぱりグループは門でたむろし、原告一郎を見付けると足をかけて転倒させたり、殴ったりした。そのため、原告一郎は、つっぱりグループが門にいるときは、門を通って下校することができず、学校の敷地の境界の高いフェンスを乗り越え、遠回りして帰宅したことがあった。

連日「いじめ」により打撲を受けた原告一郎は、その都度保健室で手当てを受け、その頻度は、野口慶子養護教諭が「学校の湿布がなくなるから、君専用の湿布を自分で用意して来たら。」と言うほどだった。

(10) 同年六月一八日の二時限と三時限の間の休み時間に、Bが原告一郎に対し、「お前は皆に服装等厳しくしているのに自分だけ長髪にして何だ。お前の髪を切ってやる。」などと言って、突然いわゆるアーミーナイフの鋏の部分を出し追い掛けて来たため、原告一郎が職員室へ逃げようとしたが、Aらつっぱりグループに取り押さえられてトイレの中に連れ込まれ、四、五名に脇腹や背中、首等を殴られたり蹴られたりし、更にモップの柄や教科書の背表紙でも殴られた。それから、Aはアーミーナイフのナイフの部分を出し、「黙らないからお前を殺してやる。」と叫び、原告一郎にナイフを突き付けた。そのため、危険を感じた原告一郎は、咄嗟に取り囲んでいた一人を蹴り、自由になった片手でナイフを取り上げようとAらと揉み合ったところ、ナイフにより左手の親指付け根付近を切った。そうして、ようやくトイレから逃げ出した原告一郎は、またもやトイレの出口で捕まって、動けなくなるまでつっぱりグループによる殴る蹴るの暴行を受けた。暴行の結果、原告一郎は頭部、頚部から腹部、背中等全身にかけて打撲症を負い、左手及び頚部にはナイフによる創傷を負ったため、東医院に通院して治療を受けたが、頚部は痛みのために四、五日首が回らない状態であった。

右暴行の後、原告一郎が保健室で休んでいると、つっぱりグループのAらが来て、「さぼってるんじゃねえ。」と言って、バケツで原告一郎の頭に水をかけていった。

(11) ナイフ事件後、原告一郎は金子教諭らに励まされ、翌々日から登校したが、Aらつっぱりグループから「チクッた。」「生意気だ。」などと言って殴られ、いじめはますますエスカレートした。

同年七月には、原告一郎はつっぱりグループの暴行により体中あざだらけだった。

(12) 同年六月下旬、何者かにより原告一郎の教科書が焼却炉に投げ込まれた。

(13) 連日のように、昼食時、何者かにより原告一郎に給食の牛乳パックが投げ付けられた。

(14) Aは、職員室において、池田正美教頭の面前で原告一郎を突き飛ばした。このとき、池田教頭はAに対し何の注意もしなかった。

(15) 原告一郎の靴の中に何者かにより剃刀の刃や画鋲が何回も入れられていた。

(16) 原告一郎は、三年生の第一学期の間に靴を何者かにより二回盗まれて買い替えた。

(17) 同年八月三一日、Aは、生徒会の部屋の引っ越しをしている原告一郎に対し暴言を吐き、そして噛んでいたガムを吐き出した。

(18) 同年九月初旬、何者かが、背後から原告一郎の背中を蹴って階段の上から突き落とした。

(19) 同時期ころ、保健体育科の授業中に、AとBはバレーボールや竹刀で原告一郎を脅したりたたいたりした。

(20) 同月一三日、風邪で体調が悪かった原告一郎が保健室へ行くと、つっぱりグループの者らがたむろしており、原告一郎に対し「ずる休みするな。」「お前らがここへ来るから俺たちがここにいられないんだ。今度来たらただじゃおかないぞ。」などと強い調子で脅した。

以上のいじめ行為の結果、原告一郎は、同月一七日、登校途中、つっぱりグループの者らにいつ殺されるかもしれないという恐怖と不安で心身が極度の緊張を来し、自宅へ引き返して、以後登校を拒否した。

(二) 被告の認否

原告らの主張は、(1)のうち飛蹴り事件(第二、一3(二))及び(10)のうちナイフ事件(第二、一3(四))のあったこと、末尾記載のうち登校拒否の点はいずれも認め、冒頭の記載、(1)のその余の事実、(4)の事実、(9)後段の事実、(10)のその余の事実、(13)、(14)の各事実、末尾記載のその余の事実はいずれも否認し、その余の各事実についてはいずれも知らない。

A、Bらによる原告一郎に対するいじめの事実はなく、同原告に対しなされたものは「ふざけ」ないしは同原告とAらとの間の「喧嘩」に過ぎない。

3  いじめに対する学校の対応

(一) 原告らの主張

学校においては、原告一郎に対するいじめの防止について何ら有効な対応策をとっていない。その実情は次のとおりである。

(1) 飛蹴り事件の際、吾郷教諭は、原告一郎、A又はその他の生徒に全く事実確認をせず、Aに対し全く注意等の指導をしなかった。そして、学校は飛蹴り事件が重大であるという認識をもたず、吾郷教諭は本事件を些細なこととして担任の金子教諭に報告し、金子教諭はこれをまた些細なこととして学年主任の小川教諭に報告したに過ぎず、校長に飛蹴り事件の報告があったのは事件から二か月以上後の昭和六〇年六月一九日のことである。

(2) 飛蹴り事件以後、ナイフ事件までの間は、学校側としては、原告一郎が小川教諭や金子教諭に直接いじめを受けた報告をしていたほか、プールに投げ込まれた原告一郎の学生服を教員が拾って届けたこと、教科書等が盗まれ授業中に原告一郎が教科書を机上に出せなかったこと、傷害を負う度に原告一郎が保健室へ行って養護教諭にいじめを受けた事情を訴えていたことなどから、原告一郎がAらつっぱりグループの者からいじめを受けていたことは十分知り得たのにもかかわらず、何の対応策もとっていない。

(3) ナイフ事件については、通り掛かった教師が見て見ぬふりをして通過したことがあった。

学校側による同事件の事実調査としては、事件直後に小川教諭が原告一郎とAに言い合いをさせただけで、A以外の加害者や目撃者に事実確認をすることもなかった。そして、小川教諭は、Aに対しては口頭で軽く注意を与えただけで授業に帰し、原告一郎に対しては「生徒会役員がつっぱりと問題起こすとは何だ。」と言って、その後金子教諭が来るまでの約五分間、全身打撲で体中が痛かった原告一郎に床の上での正座を命じた。

(4) ナイフ事件の後、金子教諭は、原告一郎に対し、①何かあったら先生に報告するように、②休み時間は職員室の前へ来るようにという指導をするのみで、何ら抜本的な対応をしておらず、また、学校は、原告一郎が昭和六〇年六月一九日に金子教諭と小関教諭に訴えた数多くのいじめの内容については一切調査していない。

(二) 被告の主張

原告らの主張は争う。

(1) 飛蹴り事件は、保健体育科の授業開始直前の出来事で、Aがふざけて原告一郎の腰を足蹴りしたものであり、原告一郎は自ら直ちに保健室に赴き湿布してもらいそのまま授業を受けた。吾郷教諭は、授業開始後、原告一郎が授業に復帰できる状態を確認した上で、Aに対してふざけてもこのような行為をしてはならない旨を注意した。

(2) 飛蹴り事件後、ナイフ事件までの間は、原告一郎がいじめを受けていたとしても学校側がこれを知り得る状態になかった。

(3) ナイフ事件の際、たまたまその場を通り掛かった坂本教諭がこれを制止し、直ちに原告一郎、A及びBの三名を相談室へ連れて行き、宮川教諭と瀧島教諭に事情を聴いてもらい、AとBに原告一郎に対して謝罪させた。そして、原告一郎の首にかすり傷があるというので、保健室に連れて行って応急手当を受けさせた後、金子教諭が原告一郎に首が痛かったら医者へ行くよう指示した。

(4) ナイフ事件の当日、金子教諭は、直ちにA及びBを再度指導し、その両親に事実経過を話して原告ら宅へ謝罪に行くよう促したうえ、原告春子を呼んで事情を説明して謝罪し、また、Aの母親は原告春子に対し電話で謝罪した。しかし、その後、原告らから金子教諭と小関教諭に対し、数多くのいじめを受けていた等の申出は全くなかった。

4  登校拒否の原因

(一) 原告らの主張

原告一郎の登校拒否の原因は、A、Bらのグループによる、継続的で執拗ないじめにより、原告一郎が自律神経失調症に罹ってしまったためである。

(二) 被告の主張

A、Bらによる原告一郎に対するいじめは存在せず、原告一郎の登校拒否の原因は、いじめを理由にした怠け、学校が何とかしてくれるだろうという甘え、第一学期の成績が下がったこと、また、わがまま、反抗的で協調性が欠ける性格から対人関係を悪化させたことなどであり、その主たる原因は怠学である。

5  登校拒否後の学校の対応

(一) 原告らの主張

原告一郎が登校拒否を始めてから、学校側で加害者のAやBに事実確認をしたのはたったの二回であり、また、学校ではいじめの実態調査のためアンケート調査を行ったが、これは教室において不充分な時間で行ったものであり、効果的ではなかった。学校では原告一郎の登校拒否問題を学校全体の問題として取り組まず、PTAに問題提起する姿勢もなく、緊急に学年会を開催したのみであり、学年での取組は、右のA及びBに対する事情聴取と指導、A及びBの親に対する指導と不充分なアンケートのみであり、原告一郎に対しては、このようにいじめ根絶の努力をすることなく、ただ学校に出て来るように言うのみであった。

(二) 被告の主張

原告らの主張は争う。

原告一郎が登校拒否を始めてから、その原因がA及びBにあると聞いた金子教諭は、九月二〇日に三年四組の生徒に対し将来再びこのようなことがないように強く指導するとともに、AとBを個人指導した。

しかし、原告一郎は、その後も登校拒否を続けたので、原告らの要請を受けて、金子教諭と竹内教諭は連日のように原告ら宅と連絡を取り、あるいは直接訪問をし、羽村町教育委員会や教育相談室と緊密な連絡を取り、AとB及びその保護者に十分指導と説得をし、一日も早く原告一郎が授業に出席できるように最善の努力を尽くしたばかりか、原告一郎の高校進学については、担当教諭が原告ら宅を訪問して原告一郎の進学指導をしたり、受験先の高校を訪問して合格を懇願するまでしている。

6  責任原因

(一) 原告らの主張

(1) 債務不履行責任

原告一郎と被告との関係は、教育諸法上の在学契約関係であり、被告は教育委員会及び羽村一中の教職員を通して原告一郎に対し発達成長段階に即して教育諸科学の研究成果の上に立った諸教科の教授や生活指導をする義務を負うとともに、また、生徒の学校生活における生徒同士の人間関係に由来して発生すべき様々な生命又は身体の危険に対する安全配慮義務を負っている。

ところが、羽村一中の教職員は、社会において、いじめの問題が深刻化しているにもかかわらず、いじめ問題の重要性を認識せず、いじめを早期に発見する努力を怠り、いじめを発見した後もその実態把握や適切な指導等の学校全体の取組をせず、原告一郎に対する前記安全配慮義務を怠ったため、原告一郎は自律神経失調症に罹り、登校拒否を起こして後記損害を被った。

(2) 不法行為責任(国家賠償法一条)

被告の組織に属する教育委員会の委員や学校の教職員は被告の公務員であり、右各公務員が生徒に対して行う教育活動は公権力の行使に該当し、羽村一中の教職員は生徒に対し前記債務不履行責任におけると同様の安全配慮義務を負っている。

しかるに、債務不履行責任において前記したとおり羽村一中の教職員がこの安全配慮義務を怠った過失により、原告一郎は自律神経失調症に罹り登校拒否を起こして後記損害を被り、原告二郎及び同春子は、後記の精神的損害を被ったものである。

(二) 被告の認否

原告らの主張は争う。

7  原告らの損害

(一) 原告らの主張

(1) 原告一郎の損害

イ 治療費 一万二〇六〇円

ロ 交通費

梅ヶ丘病院への通院交通費 二万九一六〇円

立川児童相談所への交通費 一万〇二四〇円

ハ 母親(原告春子)の休業損害 九三万九七二二円

但し、昭和六〇年九月一八日から同六一年六月三〇日までの分

ニ 慰謝料 三五〇万円

ホ 弁護士費用 四四万九〇〇〇円

ヘ 合計 四九四万〇一八二円

(2) 原告二郎及び同春子の損害

慰謝料 各一〇〇万円

(二) 被告の認否

(1)の事実は否認し、(2)の事実は知らない。

第三争点に対する判断

一羽村一中の状態について

羽村一中は、遅くとも昭和五六年ころ以降、校内にいわゆる「つっぱり」生徒らが存在し、生徒による教師に対する暴行事件、校内外における暴行事件や非行がマスコミにより報道され、校内においては、器物損壊、喫煙、服装の乱れ等の規律違反行為が散見された。昭和六〇年三月の卒業式の際には、一部生徒により、前日体育館に準備した放送設備が壊され、式場の椅子が倒されるなどした事件があった(<証拠>)。

羽村一中において、昭和六〇年当時、いわゆる「つっぱり」少年らが組織体を構成していたか否かについては、これを肯定する原告一郎(第一回)、同二郎の各供述があるが、甲第一八、第三八の三ないし五及び第一三一によっても、昭和五八年内に羽村一中の生徒による集団的暴力事件が発生したこと、昭和六〇年八月に羽村町在住の一六歳及び一七歳の二少女らによる女子中学生らに対する暴力事件が発生したことが認められるに止まり、他に右の点について裏付証拠はないから、同原告らの右供述を直ちに採用することはできない。

なお、昭和五八年三月の羽村一中の卒業式をパトカーで警らしたとの原告らの主張については、原告一郎の供述(第一回)中にこれを見たとの部分があるが、乙第五四によれば、同原告はその時点において羽村東小学校内にいたと認められるから、右供述は採用しない。

二いじめの存在及び学校の対応について

1  「いじめ」について

「いじめ」とは、「同一集団内の相互作用過程において優位に立つ一方が、意識的にあるいは集合的に他方に対して精神力・身体的苦痛を与えること」、「逃げられない閉じた集団(学校)の中で、対抗力のない弱者に対して、正当な理由なく繰り返される私的制裁」などと定義され、学校及びその周辺において、生徒の間で、一定の者から特定の者に対し、集中的、継続的に繰り返される心理的、物理的、暴力的な苦痛を与える行為を総称するものであり(<証拠>)、具体的には、心理的なものとして、「仲間はずれ」、「無視」、「悪口」等が、物理的なものとして、「物を隠す」、「物を壊す」等が、暴力的なものとして、「殴る」、「蹴る」等が考えられる。

2  座椅子殴打事件

昭和五九年一〇月二六日、技術科の授業中に原告一郎と谷合が、机上旅行クラブに出席率の悪い生徒の話をしていたところ、Dが「うるさい。」と言ったので、原告一郎が「関係ないから出て来るな。」と言い返し、両名が口論となり、Dが製作中の座椅子で原告一郎の頭部を殴打した。

その際、担当の片山憲二教諭は教室で個別指導に当たっていたが、原告一郎を直ちに保健室に連れて行って平地養護教諭に手当てを依頼し、それからDに注意をした後、職員室へ連れて行き、二年生担当の教員に指導を依頼して教室に戻り、授業を続けた。

その後、原告一郎の担任であった小関教諭が原告一郎を羽村診療所に連れて行って治療を受けさせたが、傷病名は「頭部打撲傷兼擦過傷」であり、二日間の治療により治癒した。

また、Dは、原告一郎に対し、学校及び原告一郎の自宅で謝罪し、以降原告一郎にかかわることをしなかった。

(以上につき、<証拠>)

3  A及びBについて

AとBは、原告一郎の所属する三年四組に在籍し、特殊な髪形をしたり、服装が乱れ、喫煙、遅刻などの問題行為があった(<証拠>)。

しかし、右両名が二年次において問題行為のあったことを認めるに足りる証拠はなく、また、右両名が何らかの暴力的傾向のある組織に所属していたことを認めるに足りる証拠もない。

4  飛蹴り事件

昭和六〇年四月一一日、同年度最初の保健体育科の授業の開始に際し、担当講師である吾郷教諭が生徒の前に立ち、生徒が整列をしていたところ、Aがいきなり背後から原告一郎に飛蹴りをしたため、同原告は倒れ、保健室で手当てを受けた。吾郷教諭はAに二度とこのような行為をしないよう厳重に注意をし、担任の金子教諭に報告した。同教諭もAに対し同様の注意を与えた(<証拠>)。

5  カメラの無断使用

AとBは、同年六月一一日から一三日までの修学旅行の際、原告一郎のカメラを無断で使用した(<証拠>)。

6  授業中の問題行動

AやBらは、授業中に教室内で消しゴムや教科書を投げ合い、これをわざと原告一郎にぶつけたりした(<証拠>、弁論の全趣旨)。

7  ナイフ事件

(一) AとBは、前記修学旅行に行く前に、髪にパーマをかけ、金子教諭に注意されたため髪を切って修学旅行に参加した。他方、原告一郎は、同じころ、羽村一中の生徒手帳には、髪形の規制として髪が目や耳にかからない程度の長さとする旨の規定の記載があるのに、髪が目や耳にかかる状態であったところ、金子教諭にプールの授業があるから髪を切るように注意されたのに切らなかった(なお、<証拠>によれば、羽村一中においては、右規定にもかかわらず、同原告程度の長さの髪形の生徒は珍しくなかったと認められる。)。

そのような折、同年六月一八日の二時限目と三時限目の間の休み時間に、Bが同原告に対し、いわゆるアーミーナイフの鋏の部分を出して、「お前はみんなに服装など厳しくしているのに、自分だけ長髪にして何だ。お前の髪を切ってやる。」と言って追い掛けたので、同原告は逃げたが、BやAに捕まり、トイレ内で殴る蹴るの暴行を受け、頚部打撲症を負った。

(二) 始業のベルが鳴り、Aらが教室に引き上げた後も、原告一郎がトイレの前にいたため、前を通り掛かった坂本均教諭が同原告を相談室に連れて行き事情を聴いたところ、同原告がAとBの名を出して(他の者の名は出さなかったと認められる。)暴行を受けたと述べたため、Aを相談室に呼んで、宮川啓一教諭と瀧島浩子教諭が指導した。Aは一応謝罪の言葉を同原告に対し述べたが、同原告は謝り方が悪いと言ってAにくってかかったので、宮川教諭らはこれを制止し、Aに対しては同原告に謝るよう、そして二度と暴力を振るわないよう指導し、同原告に対しては髪の毛の長さが問題になったのであるから髪を切るよう指導した。

(三) 宮川教諭からの知らせを受けた担任の金子教諭は、すぐに相談室へ行き、原告一郎を保健室へ連れて行って野口慶子養護教諭に頚部の傷を消毒ガーゼで治療してもらい、同原告が興奮気味で精神的に動揺している様子だったのでそのまま保健室で休ませ、終業後クラスの生徒を帰宅させてから、保健室へ行き同原告に傷が痛むようであれば医者に行くよう指示した。

また、金子教諭は、同原告に経緯を尋ねると、同原告は、Bが髪の毛を切ってやると言って鋏を持って追い掛けて来てトイレに追い込まれ、A及びBと同原告との間で揉み合いとなり、同原告が首筋にかすり傷を負ったというようなことを述べた(他の者の名は出さなかったと認められる。)ので、その後、AとBを呼び、暴力行為をした理由を聴き、暴力行為は許されない旨話し、今回のことを保護者に報告して保護者から原告らに謝罪するよう指導した。

(四) 原告二郎及び同春子は、同日、帰宅すると原告一郎が興奮した様子でナイフ事件のことを話したので、それまで同原告がクラスで「いじめ」を受けていた様子には全く気付いていなかったため、驚いて学校に電話をしたうえ、午後七時ころ、学校を訪れ、金子教諭と会い、事件で使用されたアーミーナイフのことなどナイフ事件について話した(その他のいじめの話はほとんど出なかったと認められる。)。これに対し、金子教諭は、学校で事件が発生したことを謝罪し、原告一郎が髪を切らなかったのが原因であるから髪を短く切るよう要請したところ、原告二郎らは、原告一郎が風邪をひいていることを理由にこれを拒絶した。

原告一郎は、翌一九日、羽村町内の東医院に行き、右傷害の治療を受け、頚部打撲症との診断を受けた(診断書に要治療期間の記載はない。)。

(五) 学校においては、右一九日の学年会において、①三年生全学級に暴力行為を否定するように各担任教師が指導を徹底する、②現担任の金子教諭と原告一郎の二年次の担任である小関教諭が原告ら宅を訪問し再度謝罪する、③A、B本人及びこれらの親から原告らに謝罪させ、本人らには今後原告一郎にかかわらないよう十分注意する、④この学年会の結果を校長及び教頭に報告し、指示を仰ぐということが確認された。

そして、右確認に従い、右学年会の結果が学年主任の小川教諭から校長及び教頭に報告され、校長から小川教諭に対し、①同月二〇日に、学校を代表して教頭が、学年を代表して金子教諭と小関教諭が原告ら宅に謝罪に訪問する、②校長が全校生徒に全校朝礼で暴力否定の思想の徹底について訓話をする、③学年会での決定事項の実行と、今後二度とこのような事件が再発しないよう万全を期するようにとの方針が示された。

(六) 同月二〇日、教頭、金子教諭及び小関教諭が原告ら宅を訪れ、謝罪をしたが、その際、Aの母親から一応謝罪の内容の電話が原告ら宅にかかってきた。

(以上、ナイフ事件につき、<証拠>)

(七) なお、原告らは、ナイフ事件について、原告一郎に対し、暴行を加えたのは、A及びBのほかE、Fらつっぱリグループの者五、六名であり、Aは、アーミーナイフのナイフ部分を出して原告一郎に切り掛かり、この際原告一郎が左手及び頚部に切創を負ったのであり、また、ナイフ事件の最中に二名の教師が通り掛かったが見て見ぬふりをして通り過ぎ、小川教諭は相談室において全身を負傷している原告一郎に対し正座を命じ、それから、事件の後原告一郎が保健室のベッドで休んでいるとAがやって来てバケツで水をかけて行ったなどと主張している。

まず、暴行を加えた者については、原告一郎がナイフ事件直後に教師に対し加害者として申告したのは、前記のとおり、A及びBの二名のみであること、原告一郎は、第一回本人尋問においては、加害者は四、五人で、A及びB以外の加害者の名前を尋ねられても分からないと答えていたところ(第六回調書四六丁以下)、第二回本人尋問になると、加害者は一〇人で、A及びBのほか、C、E、Fがいたと供述している(第二二回調書三丁)ことから、原告一郎の右の点に関する供述はにわかに採用することができない。甲第一二七の一は、原告二郎が昭和六一年二月一一日、Bから七、八人で原告一郎をトイレに押し込んだこと、加害者の名前としてB、Aのほか二名を挙げ、他は分からないと述べたことを聞き取った書面であるが、同原告の供述によれば、右書面は後日作成されたものであることが認められ、しかもBらの署名を得ていない。また、乙第六(町教育委員会宛の報告書)の同日関係部分には、Bがナイフ事件の事実関係を認めたとの記載があるが、どのような事実を認めたのかについての記載はない。よって、この点に関する原告らの主張は的確な証拠を欠いているというほかない。

次に原告らの主張する切創の存否について見ると、右主張に副う原告一郎の供述(第一、二回)があるが、左手部の切創については裏付証拠を欠いており、頚部の切創については<証拠>中に「首筋にかすり傷」との部分があるが、甲第一三(診断書)に記載のないことからして、仮にかすり傷が切創であったとしても、医師による治療を要する程度のものであったとは認められない。

原告らのその余の前記主張中、認定事実に副わない部分についての原告一郎の供述(第一、二回)は、<証拠>に照らし、採用できない。

8  その他のいじめ行為について

原告一郎の供述(第一、二回)は、右に認定した以外に、原告らの前記主張(第二、二2(一)(2)ないし(5)、(7)、(9)、(11)ないし(20))のとおり、その他のいじめ行為があったというものである(但し、(2)の暴行の件についての原告一郎の供述(第一回)の内容は曖昧であり(第六回調書三〇丁以下)、また、(7)の黒板大書の件については、第一回尋問の結果によれば、右尋問時、同原告にはこの点について確かな記憶のなかった様子が窺われる(第六回調書三六丁以下)。さらに、(18)の階段からの突き落としの件については、同原告は第一回の尋問時には加害者は不明であると供述していたが(第六回調書六二丁裏)、第二回の尋問時には加害者はA、Bの両名であると明確に供述している(第二二回調書五丁表)点に不自然さがある。)。

原告春子は、時期は不明であるが、原告一郎の腰の辺りの内出血を見たことがあること、原告らの家の湿布薬の消費が多かったこと、原告春子は同一郎の服の鈎裂きを修理したことがある旨供述している。

原告一郎のその他のいじめ被害に関する供述を裏付ける客観的証拠はない(本件において加害者とされるA、Bの両名は当事者とされず、また、証人申請もされていない。)。そして、同原告の供述内容の変遷及び後記六のその後の出来事、殊に同原告の高校進学先教師らによるいじめの訴えに照らすと、原告一郎の供述には、若干、誇張された面があると見られる。

しかしながら、さきに認定したA及びBの性格、同原告に対する行動、原告春子の右供述内容並びに原告一郎が登校拒否直後、金子教諭に、AとBが怖くて登校できないと述べたこと(後記五の九月一八日の頃)に照らし、原告らの主張するその他のいじめのうち、A、Bの両名が、その時期及び態様はともかくとして、飛蹴り事件以降、原告一郎の登校拒否に至るまでの間、同原告に対し、些細なことを理由に殴ったり、蹴ったりする暴行を加えたことが何回かあったと推認することができる。

9  その他のいじめの申告について

原告一郎は、飛蹴り事件及びナイフ事件を除くその余の同原告に対するいじめについて、昭和六〇年六月までは、担任の金子教諭及び学年主任の小川教諭にその都度、報告していたが、その後はいじめがより酷くなるだけなので、報告しなかった旨供述するが(第一、二回)、何らいじめの報告を受けていないとの同教諭らの供述(<証拠>)及びいじめを教師に知らせても役立たないと考える中学三年生は同年当時60.3パーセントに及んでいたこと(<証拠>)に照らし、同原告から右の報告が教師らになされたとは認められない。

10  その後、登校拒否に至るまでの間の学校の対応

ナイフ事件後から原告一郎の登校拒否に至るまでの学校側の主な対応は、次のとおりである。

(一) 同年六月二四日、校長は、全校朝礼において訓話を行い、その中で同月一八日に生徒同士の暴力事件が起きたことを話し、暴力を憎む心を育てること、見て見ぬふりをせず、皆で暴力をなくす努力をすること、自分にして欲しくないことを他人にしてはならないこと等の訓示をした。

(二) 同月二六日、職員会議において、校長から七月の学校経営方針が示されたが、その中で長期休業前の生活指導を心掛け、問題行動をもつ生徒への対策を立てるようにとの指示があった。

(三) 同年七月三日、職員会議において、校長から八月の学校経営方針が示されたが、その中で要配慮生徒への連絡、家庭訪問、電話連絡、葉書による激励等により動向を把握するようにとの指示があった。

(四) 同月一〇日、職員会議において、校長から、第一学期には問題行動が見られたが、生徒の成長過程としてとらえることが大切であり、しかし、許される範囲と許されない範囲の区別をはっきり教えることが重要であるとの訓示があった。

(五) 同月二〇日、第一学期の終業式において、校長は、公正な判断力、思いやりの心、人の和の大切さについて訓話した。

(六) 同年九月二日、第二学期の始業式において、校長は、日航機事故と生命の尊重及び非行、暴力を憎む姿勢について訓話した。

(七) 同月四日、職員会議において、校長から九月の学校経営方針が示されたが、その中で生徒の問題行動を早期に発見して迅速に対処するよう、学年体制による全職員の協力を訴えた。

(八) なお、原告一郎は登校拒否に至るまでは変わった様子もなく通学しており、学校側では、A及びBとの関係についても問題が生じていないと観察していた。

(<証拠>)

三原告らの家庭の様子

1  原告らの家族は、郵便局に勤務する原告二郎とその妻原告春子及び長男である原告一郎の三名であり、昭和五三年ころから、「うちのしんぶん」の名で家族新聞を継続して発刊している。

2  原告一郎が登校拒否を始める前後に原告ら家族にあった変化として次の事実がある。

すなわち、昭和六〇年三月一五日、原告一郎が懐いていた曾祖母が死亡し、原告一郎がこれによりある程度の精神的衝撃を受けた。また、その後、同年四月ころから、原告春子がゴルフ場のキャディとしてパートで勤めを始め、同年九月ころこれを辞めた。

3  原告一郎は、羽村一中の生徒会副会長に立候補する際、原告春子に対し、クラスの友達より生徒会の仲間の方が楽しいとその理由を述べた。

4  原告二郎及び同春子は、ナイフ事件以前は、原告一郎がいじめを受けていることに全く気付かなかった。

5  ナイフ事件の後、原告一郎は、朝なかなか起きたがらない様子が見えたが、原告春子らにいじめを受けていることは訴えず、また、原告春子が原告一郎にいじめの有無を確認すると原告一郎はこれをうるさがった。

6  原告春子は昭和六〇年七月一九日、PTA旭ケ丘地区懇談会に出席し、本堂、下田、木下各教諭(いずれも一年生の担任)及び他の父兄二名といじめについて議論したが、同原告が話したのはナイフ事件についてのみであった。

7  原告一郎は、昭和六〇年八月ころ、第二学期が始まるに際し、二丁の玩具の空気銃を護身用として購入した。うち一丁は、一八歳以上でないと所持が許されないものであった。

(<証拠>)

四登校拒否の原因について

前記二のとおり、原告一郎は、三年生になってから登校拒否に至るまで、A及びBにより何回かいじめを受けていたものであり、このいじめが原告一郎の登校拒否の原因の一つになっていると考えられる。

しかし、この原告一郎に対するいじめは、陰湿な面があるものの、このようないじめにあったらほとんどすべての者が登校を拒否するであろうような特に激しいものとも思われず、このいじめ以外にも、懐いていた曾祖母の死亡や母親が働きに出るようになったというような環境の変化、さらに、高校も登校拒否の後退学しており(後記六2参照)、立川児童相談所が指摘するような「正義感が強いのではなく、融通がきかない」というような性格的な問題(後記五、一〇月九日の項参照)も影響しているであろうことは否定し切ることはできないと考えられる。

なお、<証拠>(昭和六〇年一〇月一四日付診断書)には、原告一郎の病名として、「自律神経失調症」との記載があり、「極度の緊張のために上記疾ぺいを発来した。今後一、二か月の休養が必要である。」と付記があるが、右診断に至った根拠については明確でなく、かえって、後記五の一〇月九日の項で認定する事実によれば、右診断書は同原告の欠席理由を教育行政上、整える目的で作成されたものと推認され、右病名をそのまま信用していいかどうか不明である。

五登校拒否以後の学校の対応

原告一郎が登校を拒否してから以降の学校側の主な対応及び学校側と原告ら間のやりとりは、次のとおりである(土曜日及び日曜日については特記した。)。

昭和六〇年九月一八日(以下、一二月二八日の欄までの日付は、特記しない限り、同年内のものである。)

金子教諭が原告ら宅を訪問したところ、原告一郎は同教諭に対し、AとBが怖くて登校できないと泣きながら訴えた。同教諭は帰校後、これを小川教諭に報告した。

なお、同原告は、同日以降しばらくの間、金子教諭と会うことを拒否した。

九月一九日

原告二郎及び同春子が学校を訪れ、原告一郎の登校拒否の理由がA及びBによるいじめであると訴え、金子教諭が毎日原告ら宅へ連絡すること、いじめる生徒の親を学校に呼んで指導したうえ、いじめの実態調査をして名前の出た生徒も直ちに指導するなど、学校がいじめ問題にきちんと取り組んで解決することを要望した。

これに対し、学校側は、校長及び小川、金子両教諭を含め、緊急学年会を開催して対策を検討し、いじめ被害調査の実施、いじめる生徒の指導とその親への指示及び原告ら宅への連絡を実施することを決めた。

九月二〇日

いじめの実態調査として終学活(午後に行われる学級活動をいう。)の時間に三年全クラスで無記名のアンケートを実施したところ、数件のいじめの回答があったが、Aらによる原告一郎に対するいじめについての記載はなかった。

小川教諭が、Aを呼んで事実関係を確認したところ、同人はナイフ事件以降、原告一郎と口をきかないようにしておりいじめていないと答えた。同教諭は、現実に登校拒否をしているのだから何かあるのではないかなどと厳しく追及したが、Aはなおも否認したので、今後は同原告をいじめず、また、同原告がいじめられていたらAが中心となりこれを止めさせるよう同人に約束させた。

金子教諭が、Bを呼んで事実関係を確認したところ、同原告をいじめていないと言うので、今後も同原告をいじめないことを約束させた。

学校は、Aの母親及びBの母親を呼び出し、Aの母親には小川、宮川、片山各教諭が、Bの母親には金子、竹内、黒田、笹本、上代各教諭が対応した。学校側はいずれの母親に対しても、原告二郎及び同春子が学校を訪れ、原告一郎がA、Bらが怖いために登校拒否をしていると話したため、AとBに対し原告一郎をいじめないよう指導したことを話し、また、両名の日常生活のだらしない面(喫煙、授業遅れ、校内でジュースを飲む、下級生へのズボン売り付け等)については学校と保護者が協力してこれを改善させていくことを確認した。

九月二一日(土)

金子教諭が、原告ら宅を訪問した。しかし、原告春子は、金子教諭の来宅は好ましくないと述べた。金子教諭は原告ら宅との自らの連絡は当面、電話によることとした。

九月二四日

小川教諭が、昼休みに保健室にいたA、B、G及びEに対し、むやみに保健室に行かないよう指導した。その際、AとBに原告一郎に対するいじめの有無を再度確認したところ両名ともこれを否定したので、同原告をいじめないよう再び約束させた。

午後二時ころ、原告二郎及び同春子が立川児童相談所からの帰途学校を訪れ、校長に対し原告一郎の登校拒否の理由がいじめである旨述べたが、その具体的内容としてはナイフ事件のことが中心であった。校長は、両親が一番の頼りであるから、焦らず、本人に自信を持たせ、本人が自ら学校へ行きたいと言うようにさせたいと話した。また、このとき、原告春子が当時就任していたPTA広報委員長を辞めたいと申出があり、校長はこれをPTA会長へ伝えることとした。

立川児童相談所からは、そのころ、学校に対し、「原告一郎は幼少の頃ひきつけを起こし入院したことがある。今年、大変可愛がってくれた曾祖母が死亡し、その上母親が勤め始めるなどして寂しさが増したのではないか。」などと、いじめ以外の登校拒否の原因として考慮すべき事項について報告があった。

九月二五日

金子教諭が、谷合に対し、原告一郎と接触を持つように指示し、谷合及び友達の川崎某が原告ら宅を訪問した。

このころ、立川児童相談所の忍田児童福祉司が原告ら宅を訪問して相談に乗った。

九月二六日

谷合と川崎が原告ら宅を訪問し、原告一郎が好きな鉄道の写真を撮りに行ったことを聞いて金子教諭にその旨知らせた。

九月二七日

午後三時ころ、忍田児童福祉司が学校を訪れ、校長及び金子教諭に学校としての対応策を尋ね、原告一郎について、病的面の有無の調査と学校の生徒指導の二面からの指導及び同原告の梅ヶ丘病院への通院を勧めた。

九月二八日(土)

金子教諭が、原告ら宅に電話し、原告春子から、原告一郎がフィルムを買いに出掛けたこと、また、原告一郎の二年次の友人である梅野某から同原告の欠席につき電話でその理由を聞かれたことを聞いた。

九月三〇日

金子教諭が、三年四組のクラスで討論をさせ、欠席中の原告一郎に対し、学習内容についてレポート等を班で書かせて届けることとした。

金子教諭が原告ら宅に電話し、原告春子から一〇月二日に梅ヶ丘病院へ行くとの話を聞いた。

一〇月二日

金子教諭は、校長に対し、休日以外は原告ら宅と連絡を取っていること、原告一郎が大分落ち着いてきたこと、同日梅ヶ丘病院に行くことを同原告が納得していること、また、クラスについては学級作りに努めていることを報告した。

金子教諭は、谷合から、AにEを連れて来いと言われたと聞いた。

一〇月三日

金子教諭が、原告ら宅に電話し、梅ヶ丘病院における検査の結果原告一郎の脳波に異常はないとの話を聞いた。

小川教諭は、同日行われた写生会に遅れて来たAとBを指導した。

一〇月四日

金子教諭が、原告ら宅に電話し、「立川児童相談所の担当が江口先生になったが、同先生より本件を公にするよう勧められた。」などとの話を聞いた。

金子教諭が、梅ヶ丘病院の中根医師から、原告一郎の脳波は、寝ている時は正常であるが、情緒不安定な時に乱れが見られると聞いた。

この日、青梅教育センターで多摩地区生活指導研究協議会が開催され、羽村一中の提案により「問題行動の未然防止のための指導体制の在り方」について討議がなされた。

一〇月五日(土)

原告春子から、金子教諭に対し、原告一郎が進学する高校は、私立、全寮制で、しかも、自宅から遠隔地がよいとの電話があった。

一〇月七日

学校では三年生の学年会を開き話合いをした結果、①担任以外の教師であっても会わせてくれるなら原告一郎に会いたい、②同原告には中間テストを受けさせる、③同原告が一時間でも登校すれば出席扱いにするということが決まり、金子教諭が、電話で原告春子に連絡した。

一〇月九日

金子教諭が、忍田児童福祉司に電話をかけたところ、同人から「原告二郎及び同春子が親として出席を心配しており、出席扱いができないだろうか、できなければ告訴についての返事が聞きたい、それから、原告一郎の性格は、正義感が強いのではなく、融通がきかないのである。」などの話があり、これを校長に連絡した。校長は告訴と出席日数とが取引の材料にされる可能性があると判断した。

校長が、梅ヶ丘病院の中根医師に電話し、原告一郎の診断書を要請したところ、病名が何もないので付けられないとのことであったので、校長から、仮に自律神経失調とか何とか付けられないかと依頼した。

午後七時三〇分ころから開催されたPTA運営委員会において、議事終了後原告春子から原告一郎の登校拒否の事情につき訴えがあり、同委員会で審議し、体験談等が出され、解決方法が討議された。

一〇月一一日

校長が、羽村町教育委員会中根学務課長に、原告一郎の登校拒否の事実及びその理由並びに前々日のPTA運営委員会での原告春子の訴えを報告した。これに対し、中根課長から、原告一郎の件は一部始終承知しているが、子供が母親から精神的乳離れをしていないのであり、学校としての対応をしっかりとお願いする、それから、同原告が片浜養護学校あたりへ行くことを勧めてみてはどうかという話があった。

一〇月一二日(土)

午後二時三〇分ころ、原告二郎及び同春子が学校を訪れ、①忍田児童福祉司から告訴の話をされたが、まだ返事をしないでいる、②家庭の経済状況も切迫しているので、早期解決を望む、③転校も考えたが、本人が納得せず、今は考えていない。片浜養護学校を勧めるのなら、親から言えないので、児童相談所の先生から説得して欲しい、④「うちのしんぶん」を新聞社に投稿することも考えている、⑤進路については、原告一郎が鉄道やカメラが好きなので岩倉鉄道学校などを考えているとの話があった。

学校側は校長及び小川、金子、黒田、上代、瀧島、小関、宮川、竹内各教諭が対応したが、校長から同原告らに対し、①告訴、告訴と簡単に言うが、告訴は最終段階であって、告訴による学校内外の騒ぎの責任を取ってくれるのか、②学校は精一杯やっているので、暫く時間を欲しい、③A及びBの個人指導やその親を呼んでの指導もしている、④片浜養護学校を考えるつもりがあれば、同校見学に学校職員を同行させてもよいとの話をした。

そして、学校側と原告二郎及び同春子との間で、①両者の間で継続的に話し合う、②A及びBに学校生活をきちんとする指導を更に強め、親へも再度学校から話す、③竹内教諭に原告一郎との接触を取ってもらうということが確認された。

一〇月一四日

校長が、全校朝礼で全校生徒に対し、いじめによる登校拒否があったことについて一般的な話をした。

学年会で竹内教諭が原告ら宅を訪問することを決定した。同教諭は午前九時五〇分から一〇時二五分まで原告ら宅を訪問し、原告一郎と会った。

一〇月一五日

第五時限に三年の学年集会があり、進路及び生活面について生徒を指導した。その際、小川教諭は、いじめをなくし、生活態度をきちんとするよう具体例を挙げて訴えた。

金子教諭は、原告ら宅に電話し、原告春子から、A及びBの親と話をしたい旨を聞いた。

一〇月一六日

午前一〇時三〇分ころ、東京都教育事務所西多摩支所篠田指導主事(以下「篠田指導主事」という。)が羽村一中を訪れ、①原告一郎の一年次の様子はどうだったか、②同原告に対してどう指導したか、③ナイフ事件の加害者は反省しているのか、④原告二郎及び同春子と担任の関係はどうか、⑤これからの見通しと学校の対応はどうか、ということについて質問があった。

これに対し、校長から、①一年次、原告一郎の同級生の梅野某はいじめられていたが、同原告はいじめの対象外であった。同原告は、自分に問題の原因があると考えず、一旦興奮すると手がつけられない面があった。②趣味が合う友人として谷合がおり、また、生徒会立候補はどちらかというと逃げ場的考えらしい、③原告二郎及び同春子は、ナイフ事件の加害者らに直接でなく、学校を通して詫びが欲しいと言っている、④原告二郎及び同春子と担任とはコンタクトがよく取れている、⑤今後の対策として学年会の開催、Aら本人と親の呼出指導、PTA役員会での検討など、その他必要ならば学年父母会も開く予定であると報告した。

Aの母親とBの母親が学校を訪れ、校長、教頭、小川、金子各教諭らが応対した。学校側は右母親らに原告らの様子を話し、原告らへの誠意を見せるよう要請し、原告二郎及び同春子と話し合う約束をしてもらった。

金子教諭が、原告ら宅へ電話をかけたが、Aらとの話合いは二人一緒でなく、別々にして欲しいと訴えられ、また、原告一郎が竹内教諭とテストの話もできるようになったと言われた。

一〇月一七日

午後六時ころから、羽村一中の校長室において、校長及び小川、金子各教諭が立ち会い、原告二郎とAの母親の話合いがなされた。

まず、原告二郎が、ナイフ事件を説明し、事実関係をよく知って欲しいと訴え、経済問題が絡んでいることを匂わし、原告一郎が早く登校できるように、そして、今後二度とこのようなことがないようにして欲しい、また、問題が解決されない場合には、告訴する気持ちがある旨述べた。

これに対し、Aの母親が、原告らはどうして欲しいのか、また、ナイフ事件の原因を作ったのは原告一郎の方ではないのか、そして、原告らに直接詫びたいが、学校を通してと言って会ってくれないではないかとの話があった。

学校側は、①同月末位を目途として問題が解決できるように対応していく、②A及びBの親に謝罪についてもっと詰めてもらう、③学級指導の充実を図るとの話をし、また、原告二郎に対してはもっと主体性を持って子供の指導をするよう依頼した。

一〇月一八日

金子教諭が、原告ら宅に電話すると、学校以外の場所で会いたいとの話であった。

一〇月一九日(土)

金子教諭が、原告ら宅に電話すると、「原告一郎は鉄道模型を作っている。学校以外の場所で竹内先生を交えて話をしたい。」との話であった。

竹内、坂本両教諭が、原告ら宅を訪問し、原告一郎と会った。

一〇月二一日

金子教諭が、原告ら宅を訪問したが、原告一郎は同教諭に会おうとしなかった。

竹内教諭が、原告一郎とテスト範囲の話をした(会話の方法は不詳)。その結果、竹内教諭は、原告一郎もテストを受ける態勢に入ったと金子教諭に報告した。学校側は、三年学年会を開催し、原告一郎についてテストは三教科でも五教科でも日程を自分で決めてよいと決定した。

一〇月二二日

原告二郎から金子教諭に電話があり、翌二三日午後五時に中央館で会う旨の約束をした。

午後六時三〇分ころから、羽村一中の校長室において、校長及び小川、金子、黒田各教諭が立ち会い、原告二郎とBの父親との話合いがなされた。

まず、原告二郎が、同月一七日のAの母親との話合いのときと同様の話をしたうえ、Aの母親から自宅へ電話があったが、原告一郎及び同春子が興奮するので直接電話せず、学校を通じて連絡して欲しい、そして、今は告訴するつもりはないが、解決しなければ告訴する、また、交通費、医療費等を請求するとの話があった。

これに対し、Bの父親から謝罪の言葉があり、学校としては、①見通しを持って素早く、同月末ころまでを目途に対応する、②Bらの親に誠意を示す方法を考えてもらう旨話をした。

一〇月二三日

職員会議において、校長から「教室にみるいじめ問題」について新聞発表による研究報告があった。

午後五時三〇分ころから中央館で金子教諭及び竹内教諭が原告二郎及び同春子と会い、中間テストを教師派遣の方法で行う旨伝えた。

一〇月二四日

竹内教諭が、原告ら宅を訪問した。そのころ、金子教諭が、原告ら宅に電話し、原告春子から、原告一郎は昼は買物に出掛け、翌日は東京へ行く予定であると聞いた。

一〇月二五日

原告一郎が、自宅においてテストを受けた。

一〇月二六日(土)

前日に同じ。

一〇月二九日

Aが昼休み、出会頭に友達の喉をつかんで爪痕を付けた。小川、金子、坂本、小関各教諭がAを指導した。

一〇月三〇日

中根PTA会長が学校を訪れ、一一月一日のPTA広報委員会で「いじめ問題」の特集をしたいと広報副委員長から連絡された件について、校長と打合せをした。

校長が、職員朝会において、教職員に対し、下校指導の徹底、特に問題行動児の把握と指導を指示した。

金子教諭が、原告ら宅に電話し、原告一郎が同二郎と東京駅ニューメディアに外出したという話を聞いた。

一〇月三一日

金子教諭が、喫茶店「バーゼル」で原告二郎及び同春子と会い、進学の話をした。金子教諭が、原告一郎の進学先として昭和鉄道高校のことを話すと、原告二郎らは今は焦らず、本人のためにこれからの生き方を考えていると答えた。

一一月一日

PTA広報委員会に原告二郎及び同春子が出席し、原告二郎が四月以来の原告一郎に対するいじめの実態を報告した。広報委員会としては、いじめ問題を広報のテーマとすることを決定した。

一一月二日(土)

原告二郎から金子教諭に対し、片浜養護学校について学校に相談に行きたい旨の電話連絡があった。

一一月三日(日)

竹内教諭が校長に対し、「片浜養護学校について原告二郎及び同春子に話したが、原告らの側で決めることで、本人がその気にならないと無理強いできない。」と報告した。校長は、学校からは片浜養護学校へ行くことを絶対強制しないようにと指示した。

一一月五日

校長が金子教諭から、原告二郎及び同春子から片浜養護学校を調査したいとの申出があったとの報告を受け、原告二郎及び同春子に来校してもらい、よく打ち合わせるよう指示した。

この日、篠田指導主事は羽村一中を訪れ、校長に対し、一〇月一六日以降の動きを尋ね、学校のとった措置の明確化並びに原告二郎及び同春子との早急な面談を求め、更に原告一郎の卒業認定と進路指導についての学校の考えと今後の対応についての考えを尋ねた。

一一月六日

原告二郎及び同春子が、学校を訪れ、同原告らと校長、教頭及び小川、金子、竹内、黒田各教諭との間で話合いがなされた。まず、原告二郎から原告一郎について一人で外出できるようになったなどの現状報告があり、次に、小川教諭から学校の様子の説明などが行われた後、①卒業については原告らの要望を聴き、校長が判断する、②進路については昭和鉄道高校の線で進め、都立の場合はなるべく遠方とする、③片浜養護学校については竹内教諭から原告一郎に話してもらう、④同原告の欠席理由をはっきりとさせる、⑤同原告が学習意欲をなくしているので、実力を付ける努力をさせる、⑥全校的にいじめがなくなるよう取り組む、⑦A、Bらが、原告ら宅へ押し掛けて行ったり、電話をかけたりしないよう注意するなどの確認がなされた。

金子教諭は、このころから、原告一郎が自転車に乗って外出している姿を他の生徒が見るなどしたことから、原告一郎に対する他の生徒の意識の変化を感じるようになった。

一一月七日

金子教諭が、三年四組の生徒に対し、学級活動の時間において、原告一郎の欠席理由を明らかにし、いじめが起きないよう指導した。

校長が、奥多摩町古里中学校での研究発表会場において、篠田指導主事に対し、前日の原告らとの話合いの状況説明をした。また、翌日に椎木主任指導主事と篠田指導主事が羽村一中を訪問するとの連絡を受けた。

一一月八日

金子教諭が、原告ら宅に電話し、原告二郎から、片浜養護学校については昭和六一年八月位まで行かせることを考えていると聞いた。

篠田指導主事が羽村一中を訪れ、学校に対し、これまでの指導経過をまとめることとこれからの対応策として、①原告一郎を登校させる手だて、②一一月一三日に予定されているPTA運営委員会の対応、③いじめを一掃させるための方策、④以上を検討するプロジェクト協議会の結成について話した。

校長が、町教育委員会の児島教育長に対し、①ナイフ事件の概要、②九月一九日以降の学校の対応策、③原告二郎及び同春子の考え方、④前記プロジェクト協議会、⑤今後の対応策について報告した。

一一月九日(土)

金子教諭が、原告ら宅に電話し、原告一郎が文化祭の時に机上旅行クラブの展示を見学できるかもしれないことを聞いた。

椎木主任指導主事、篠田指導主事、滝本町教育委員会学務課長(以下「滝本学務課長」という。)、渡辺町教育相談副室長(以下「渡辺副室長」という。)、校長、教頭、小川学年主任教諭及び本堂生活指導主任教諭が出席し、午前一〇時から一一時三〇分まで、羽村一中の相談室において、第一回プロジェクト協議会が開催され、次の問題点の提示とその対策について協議が行われた。

①小川教諭から、現在までの経過と学校の対応について報告

②篠田指導主事から、長期対策と当面の対策の助言

③椎木主任指導主事から、原告一郎が登校できる状況作り、登校拒否の原因としてのいじめの有無及びアンケート調査の結果のうち実施可能なものの指摘

④渡辺副室長から、原告一郎の現状報告、生育歴及び教育相談での問題点の指摘

⑤滝本学務課長から、原告春子との接触の感想及び一一月一三日のPTA運営委員会でのキャンペーンについての話

⑥校長から、各委員の見解を参考に学校としての具体案を再考したいとの意向表明

一一月一〇日(日)

羽村一中で文化祭が実施された。

竹内教諭が、原告ら宅へ出向き、原告らを車で文化祭会場に連れて行った。原告一郎は、机上旅行クラブの展示物を見学し、用務員室で本堂、青木、北田各教諭と話をした。

一一月一一日

坂本教諭が、原告ら宅を訪問し、原告一郎と鉄道や修学旅行、スタンプ、新幹線列車内の英語スピーチ等の話をした。

一一月一二日

小関、上代、坂本各教諭が、原告ら宅を訪問し、原告一郎と進学について話をしたほか、金子教諭も、スタンプを持って原告ら宅を訪問し、同原告の部屋に入り、在室していた谷合と鉄道の話を聞いた。

午後四時ころ、滝本学務課長から校長に対し、教育相談での対応について連絡があった。

午後五時三〇分ころから、羽村一中の校長室において、篠田指導主事、町教育委員会小山教育次長、滝本学務課長、渡辺副室長、校長、教頭、小川学年主任教諭、中根PTA会長、田中同副会長及び古川同副会長が出席し、第二回プロジェクト協議会が開催された。その際、校長は経過と対応策を報告し、小川教諭は学年と学級の対応につき報告をした。対応策として、①原告一郎への働きかけ、②学校の対策、③PTA運営委員会の対応、④PTAとしての働きかけの諸点を検討した。

一一月一三日

滝本学務課長から校長に対し、町教育委員会教育相談室における原告春子との面談の結果について、①学校の先生方の努力には感謝している、②金子教諭の努力にも感謝している、③いじめの事実関係で「そんな事実はない。」と断言している先生がいる、④原告一郎本人を良くしたい、⑤羽村一中の体制を良くしたい、⑥今後は立川児童相談所、梅ヶ丘病院と町教育委員会教育相談室だけに通うとの話があったとの連絡があった。

午後七時三〇分ころから、羽村一中の図書館において、PTA運営委員会が開催され、校長からいじめ問題に対する学校側の対策について報告し、原告春子から、学校側とPTAの対応について感謝していること、PTA広報委員長辞任問題については留任すること、原告一郎が文化祭のときに三〇分間登校したことの話があった。

一一月一四日

金子教諭が、原告ら宅に電話した。

一一月一八日

中央館において、金子、小川各教諭が出席し、羽村一中の三年四組の学級懇談会が開催され、進路のことといじめ問題が話題となった。原告二郎が、原告一郎の欠席理由を明らかにし、悩みを訴えたので、出席保護者からいじめ克服の体験談等が出され、帰宅後親子で話し合い、いじめが起こらないよう協力することが申し合わされた。

懇談会終了後、金子教諭が原告春子と個別面談し、同原告から原告一郎の高校進学を一年遅らせるか、それとも進学させるかを考えていること、片浜養護学校に一年行かせてもよいが、進学させるなら昭和鉄道高校を希望していることを聞いた。

一一月二〇日

金子教諭が、クラスの学級活動の時間において、生徒に対し、ふざけてやっていることがやられている方ではいじめと感じるので、今後はふざけもやらないようにとの指導をした。

金子教諭から校長に対し、一一月一八日の学級懇談会での原告春子との話等について報告があった。校長は金子教諭に対し、原告一郎の進路について、本人と両親の意向がどこにあるかをしっかり把握し、昭和鉄道高校が第一志望ということであれば、その線に向けて本人にも努力するよう指導して欲しいとの指示をした。

一一月二四日(日)

原告二郎及び同春子が、金子教諭と共に竹内教諭宅を訪れ、原告一郎が卒業時まで登校できるかどうか分からないので、高校受験は単願でお願いしたい、昭和鉄道高校は親も希望しており、不合格であれば、一年留年してもよいとの話をした。

一一月二五日

金子教諭が、原告ら宅へ電話し、片浜養護学校を見学することを知らせた。

放課後、三年学年会が開催され、原告一郎の進路については、一一月二八日に教頭、黒田進学担当教諭及び金子教諭の三名が昭和鉄道高校を訪問し、実情を話して高校側へ善処を要望することを決定した。

一一月二六日

校長が、片浜養護学校の片本教頭に電話し、一一月二九日に、原告らと羽村一中の教諭ら四名が見学に行く旨依頼し、了解を得た。

一一月二七日

渡辺副室長から校長に対し、原告ら宅を訪問し、原告一郎と面接をした結果について、①同原告はなかなか登校できないだろう、同原告本人は少しも変わっていない、②原告春子の考えは大分変化しているが、学校に対するイメージは変わっていない、高校へは進学させたい、欠席日数については学校が考えてくれるだろうという考えである、③原告春子の休業補償については滝本学務課長が宿題として預かっているが、渡辺副室長自身としては補償の必要はないと思うとの報告があった。

一一月二八日

教頭、黒田進学担当教諭及び金子教諭の三名が、原告一郎の長期欠席理由書を携行して昭和鉄道高校を訪問した。

校長が、竹内教諭に出張を命じ、翌日に原告らを同道し片浜養護学校を見学するよう依頼した。

一一月二九日

竹内教諭が原告一郎、同二郎を片浜養護学校に案内した。ただ、原告一郎は車内に留まり、学校内の見学をしなかった。

一二月五日

金子教諭が喫茶店において、原告二郎に昭和鉄道高校を訪問したあらましを話し、一日でも原告一郎が登校できないだろうかと要望した。

一二月六日

午後六時ころから、羽村一中の校長室において、Aの母親とBの父親を呼んで、滝本学務課長、校長、教頭及び小川、金子各教諭との話合いがあった。Aの母親からは、①Aについて噂が広がって困っており、妹の方の学校へ転校させることを考えている、②学校は原告らの言い分だけを聴いて、自分達の言い分を聴いてくれない、③事件の発端は、髪を直せとAに厳しくしたのに、原告一郎には厳しくしていないことに問題があるなどと、Bの父親からは、Bだけでなく、原告一郎の方にも問題があるなどとそれぞれ話があり、滝本学務課長から、両者とも言い分はあろうが、いじめがきっかけで登校拒否をしているのであり、直接原告二郎らに会って要求を聞いてみたいとの話がなされた。

金子教諭から校長に対し、前日の原告二郎との面談の結果について報告があり、その際、校長は金子教諭に対し、周囲がこれだけ努力しており、原告一郎本人がどんな努力をしているかが問われるので、指導して欲しいとの指示をした。

一二月七日(土)

学校において、生徒会とPTA校外委員会の共催により親子座談会が開催された。主題は「中学生活を有意義に過ごすために」とし、次の分科会に分かれて実施された。

第一分科会「いじめについて」

第二分科会「受験について」

第三分科会「親の願い子の願い」

一二月九日

校長が、全校朝礼において、全校生徒に対し、人権週間にちなんで人権尊重の精神の五つの強調事項のうち、当年度特に第五項「いじめ、体罰の根を断とう」が加えられた意義等を話した。

学年申合せに従い、竹内教諭が、午後八時ころ、原告ら宅へ出向き、原告一郎を学校へ連れて来て、坂本、宮川、笹本、上代、小関、金子、小川、竹内各教諭が励ました。原告一郎は数学と英語の学習を少しやり、三年四組の教室の自分の席にも座った後、帰宅した。

一二月一〇日

前日と同様、午後八時ころ、原告一郎が登校し、小川、金子両教諭らの励ましの下に国語、数学、英語の学習をした。

一二月一一日

校長が、滝本学務課長に対し、同月九日、一〇日の二日間、原告一郎が夜間登校し、残留中の三年担当教諭と会話し、教室の自席に座り、三〇分位いて帰宅したと報告した。

一二月一三日

金子教諭が昭和鉄道高校に校長の推薦書と長期欠席理由書を持参して訪問し、同高校側から出席日数に問題があるが、同月一五日に原告一郎と面接をするとの確約を得た。

一二月一四日(土)

金子教諭が、原告ら宅を訪問し、昭和鉄道高校受験のため、面接の練習をして励ました。

一二月一五日(日)

原告一郎が、昭和鉄道高校の面接試験を受けた。

当日朝、金子教諭が原告ら宅へ励ましの電話をした。

一二月一八日

昭和鉄道高校から学校に原告一郎は不合格との連絡があり、金子教諭が、原告ら宅を訪問して、他の高校受験に向けて頑張るよう励ました。

一二月一九日

校長が、昭和鉄道高校の校長宅に電話をし、原告一郎の不合格理由を聞いたところ、総合判定の結果三ポイント不足で、再考の余地なしとの説明を受けた。

校長は昭和鉄道高校を訪問し、同校の清水教頭と面接して判定基準について尋ね、①偏差値と内申書の合計四七以上、②欠席日数一〇日以内(校長の理由書あり問題なし)、③面接結果、④健康状態、⑤将来性、以上の項目について、一次、二次の審査会で慎重審議して判定するとの説明を受けた。

篠田指導主事から校長に対し、原告一郎の問題に関し、①進路について、②卒業認定をどうするか、③お金の問題について学校側の対応を検討して欲しい、そして右①②のアフターケアをよろしくとの指示があった。

一二月二三日

午後零時一〇分ころ、原告春子が金子教諭を訪問し、①賠償についての話、②原告一郎が「先生が自分のことを心配してくれ、先生ががっかりしてるのを聞いて申し訳ない。」と言っていたこと、③同原告が昭和鉄道高校の不合格にがっかりしたが、クラスの中にまだ内定してない人がたくさんいると聞いて大変だということを理解していること、④同原告は本日から三泊四日で関西に旅行するが、親の責任で引率して行くということ、⑤次の受験高校として埼玉県の東野高校を希望したいということ、⑥学校はよくやってくれてるので、学校に対してはどうということはないこと、⑦昭和鉄道高校の面接の際に三学期はどうするかと聞かれ、原告一郎が「登校する。」と答えたということ、⑧「うちのしんぶん」はいつも朝日新聞に送っていたが、今回は送らないということ等の話をした。金子教諭は右のとおり聞いた内容を校長に報告した。

一二月二四日

午後二時ころ、Aとその母親を学校に呼び、校長、教頭及び小川、片山、小関、向坂、坂本、竹内、黒田、宮川、上代、金子各教諭が対応し、①下級生をいじめない、②喫煙、授業抜け出し及び放送施設へのいたずらにつき反省するよう、③高校への推薦は今後の生活状況により行う旨の個別指導をした。

一二月二七日

滝本学務課長から校長に対し、早くA及びB側から原告側に誠意を示すよう取り計らって欲しいとの電話連絡があった。

そこで、校長は、Aの母親とBの父親に来校を依頼し、午後七時ころ、滝本学務課長を交えて相談した結果、医療費及び交通費として五万一三〇〇円、それにお見舞いを入れて誠意を示すことの了解を取り付けた。

一二月二八日(土)

滝本学務課長から校長に対し、原告側とAらの親との話合いの双方の日程を調えて欲しいとの電話連絡があった。

篠田指導主事から教頭に対し、電話で前夜の動きについて問合せがあり、教頭がこれを報告した。

昭和六一年一月七日(以下、本項の日付は、特記しない限り、同年内のものである。)

金子教諭から校長に対し、原告二郎との面談の結果、渡辺副室長と竹内教諭、金子教諭ら羽村一中の教諭とが相談して欲しいとの要望があるという報告があり、校長から金子教諭に、渡辺副室長の都合を聞いて相談日時を決めるよう指示した。

金子教諭が、原告ら宅に電話したところ、原告二郎及び同春子が外出中につき原告一郎と会話した。

一月八日

竹内教諭が、原告ら宅を訪問し、進路問題の助言をし、原告一郎に全寮制の都立秋川高校の受験希望があるとの考えを聞いた。

金子教諭が、原告ら宅に電話し、原告二郎と翌九日午後六時三〇分に喫茶店で会うことを決めた。

一月九日

午後六時三〇分ころ、金子教諭と原告二郎が喫茶店で会い、秋川高校の受験について会話した。

一月一一日(土)

金子教諭が原告一郎と電話で会話した。

一月一三日

原告一郎がテストを受けた。

金子教諭から校長に対し、翌一四日に渡辺副室長と竹内、金子各教諭が羽村町教育委員会教育相談室で会うとの報告があった。

一月一四日

渡辺副室長、竹内、金子各教諭が右教育相談室で今後の対策を話した。

一月一六日

金子教諭が原告一郎と電話で会話した。

一月一七日

金子教諭が、原告ら宅を訪問すると、谷合が来ており、原告一郎、同春子及び谷合と四人で旅行の話をした。谷合が帰宅した後、進路の話となり、原告一郎が、進学先としては堀越学園でも良いが、秋川高校は嫌だとの話をした。

一月一八日(土)

金子教諭が、原告ら宅を訪問し、通知票を受け取った。

一月二〇日

金子教諭が、原告ら宅を訪問し、堀越学園受験の確認を取り、原告一郎を励ました。

一月二一日

小川、宮川各教諭が、堀越学園を訪問し、原告一郎の欠席日数が多い理由を説明し、単願扱いにして欲しいと担当者に懇願したが、良い返事を貰えなかった。金子教諭は、堀越学園訪問結果を原告ら宅へ電話で知らせた。

一月二二日

金子教諭から校長に対し、原告一郎が堀越学園を受けるので、長期欠席理由書と校長の名刺を貰いたいとの要望があった。

一月二四日

小川、宮川、金子各教諭が堀越学園を訪問し、原告一郎の推薦入学依頼をしたが、保留となった。

一月二五日(土)

金子教諭が、原告ら宅を訪問し、原告一郎に面接試験の練習をさせて励ました。

一月二六日(日)

金子教諭が、原告ら宅を訪問し、原告一郎に英語ワークブックを届け、焦らないよう励ました。

一月二七日

午後六時三〇分ころから、羽村町役場において、原告二郎及び同春子、Aの母親、Bの父親、滝本学務課長、校長並びに小川教諭との話合いがもたれた。滝本学務課長から会合の意味が話され、原告二郎から原告一郎の様子や登校拒否の原因等が、原告春子から親としての心情が、それぞれ話された。原告二郎はこれまでにかかった費用の資料を提示した。Aの母親及びBの父親から原告二郎らに対し、見舞金一〇万円が提供され、原告二郎らは一旦は受領を拒否したが、滝本学務課長らの勧めにより受領した。

一月二八日

金子教諭が、原告ら宅を訪問し、数学のテキストを届け、原告一郎の受験する都立高校として五日市高校、秋留台高校はどうかと話した。その際、越生高校を練習のつもりで受けると聞いた。

一月二九日

校長と教頭が町教育委員会教育長室を訪問し、児島教育長、小山次長及び滝本学務課長に対し、これまでの経過を報告した。全員で今後の対応につき相談し、裁判問題になった場合の生徒への影響、打開策として考えられる方法等について慎重に審議した。

金子教諭が原告二郎と会い、卒業遠足と科学技術学園受験のことを話した。

一月三〇日

下田町教育委員長、渡辺教育委員、児島教育長、小山教育次長、滝本学務課長及び校長が午後三時三〇分ころから羽村町役場において、教育委員会及び学校の基本方針や経過報告、その対応策について話し合った。

校長はその後、篠田指導主事に教育委員会の方針や右話合いの結果を報告した。

金子教諭から校長に対し、前日原告二郎と面談し、堀越学園を第一希望とするが、越生高校や科学技術学園高校も受けたい、卒業遠足に参加したいという話を聞いたとの報告があった。

二月一日(土)

金子教諭が、原告ら宅を訪問し、翌日の越生高校受験のため原告一郎を励ました。

二月三日

金子教諭が、原告ら宅を訪問し、都立高校の受験について話した。原告一郎は受験したくないと言い張ったが、金子教諭が説得した。

二月四日

金子教諭が、原告ら宅に電話し、原告一郎に対し、都立高校受験の際に第二希望にも丸を付けるよう指示した。

滝本学務課長から校長に対し、区議会議員から原告一郎の問題について質問があったとの連絡があった。

二月五日

金子教諭が、朝、原告ら宅に電話し、第二希望に丸を付けたかどうか確認した。その際、原告春子から、「原告一郎が谷合と写真を撮りに行った。また、原告一郎の級友の伊城和美が来て、『おばさんは過保護過ぎる。』と言った。」との話を聞いた。

その後、原告春子が学校に金子教諭を訪れ、越生高校の受験結果と科学技術学園高校の願書につき話し、原告らが同月一四日から一六日まで奈良方面へ思い出作りのため家族旅行すると告げた。

二月六日

金子教諭が、原告ら宅を訪問し、科学技術学園高校受験意思の確認をした。

二月八日(土)

金子教諭が、原告ら宅を訪問し、科学技術学園高校の受験番号を聞き、原告一郎を励ました。

二月一一日

午後四時三〇分ころから、原告二郎とB父子が羽村一中の校長室において、校長、教頭及び小川教諭立会いのうえ話し合った。原告二郎はBからナイフ事件の事実関係を確認して認めさせ(確認内容については前記二7(七)参照)、また、卒業後に原告一郎をいじめないよう約束させ、Bの父親に対しては、ナイフ事件をリンチと認め、今後このようなことのないようにして欲しいと要請した。

午後六時ころから、原告二郎とA母子が、右同様に話し合い、原告二郎がAに対し、原告一郎が休んでいる理由を担任からどう聞いたか、仕返しをする気があるかなどと聞き、ナイフ事件の事実関係を確認し(Aは多少否認した。)、Aの母親に対しては念書の作成を要請した。

二月一二日

金子教諭が、原告ら宅を訪問した。

原告春子から金子教諭に、原告一郎が提出を求められている作文はどうしても書けないので、本人が言ったことを母親が書くとの話があった。

二月一三日

原告春子から金子教諭に対し、作文在中の手紙が届き、文集に掲載しないで欲しいとの要望があった。金子教諭と小川教諭とが相談し、これを文集に掲載しないこととした。

校長が、滝本学務課長に対し、電話で同月一一日のB父子及びA母子と原告二郎との話合いの内容について、ナイフ事件につき事実関係の確認をとることを狙っていたが、二人ともほとんど認めるに至らなかったとの校長所見を付して報告した。

二月一四日

小川教諭がAを指導し、①学級活動に遅れない、②授業に遅れない、③下級生の校舎の方に行かない、④下級生にちょっかいを出さないということを約束させた。

原告らは、同日から同月一六日まで奈良方面へ思い出作りに家族旅行へ出かけた。

二月一五日(土)

金子教諭が学年の打合せに従い、科学技術学園高校を訪問し、原告一郎の受験に際し、欠席日数が多いことで不利にならならいよう欠席理由書を届け、実情を話した。

二月一七日

金子教諭が、原告ら宅を訪問し、家族旅行の話を聞き、堀越学園の面接の話をした。

金子教諭から校長に対し、科学技術学園高校の受験手続者が一一〇〇名位いて大変難しい様子であるとの報告がなされた。

滝本学務課長から校長に対し、同日午前中に原告二郎が教育委員会を訪れ、原告春子の休業補償として一か月一〇万円宛位を二月中に出さなければ弁護士を立てると言っており、A及びBの親の考えを聞きたいので、対応して欲しい旨の電話連絡があった。

二月一九日

校長が篠田指導主事に対し、現在までの経過と今後の対応について電話で報告し、進路については十分学校としての対応を願う、休業補償については学校でタッチするより学務課に任せたいとの助言を受けた。

原告春子から金子教諭に対し、原告一郎が堀越学園に不合格であったとの電話連絡があった。

金子教諭が、原告ら宅を訪問し、原告一郎に翌日の科学技術学園高校の受験について励ました。

二月二〇日

原告一郎が科学技術学園高校を受験した。

二月二一日

原告春子から金子教諭に対し、原告一郎が面接試験でいじめのことを聞かれてショックを受けたという電話連絡があった。

午後六時ころ、校長がAの母親及びBの父親を学校に呼んで相談したところ、原告春子の休業補償は絶対出せないと聞いた。

二月二四日

校長が町教育委員会へ行き、対応策を協議した。

A及びBの受験校である八王子工業高校に原告一郎の叔母名でいじめについての投書があり、同高校から滝本学務課長へ問合せがあったので、同学務課長と校長が同高校を訪問した。

金子、上代、小関各教諭が、原告ら宅で原告一郎に対し、翌日の都立高校受験について励ました。

竹内教諭から金子教諭に対し、原告一郎が頭痛により専門学校を受験しなかったとの報告があった。

二月二五日

原告春子から金子教諭に対し、原告一郎が科学技術学園高校に合格したとの連絡があり、金子教諭はこれを校長へ報告した。

金子教諭が、原告ら宅を訪問した。

二月二六日

原告二郎が、羽村一中を訪れ、校長、教頭及び小川、金子各教諭と会い、原告一郎の科学技術学園合格のお礼と学校の取組に対する感謝の言葉があり、同原告の卒業認定をして欲しいとの要望があった。学校側からいじめ事件について教育的配慮の下で解決できないかと要望したのに対し、原告二郎は、①加害者の親からの謝罪の言葉、誠意がない、②いじめをやったことを親が認めて欲しい、そうでないと話が進まない、③原告春子の休業補償を求めることは不当でないが、相手方に誠意が認められれば補償額を下げてもよい、④相手方と直接会って話し合いたい、⑤原告一郎の進学がだめになっても、A及びBに責任を取らせる必要があるなどと述べた。

三月二日(日)

金子教諭が、原告ら宅に電話し、都立高校の合格発表の見方を説明した。

三月三日

原告春子から金子教諭に対し、原告一郎が都立秋留台高校に合格したとの電話連絡があり、学年教諭らは喜び合った。

三月四日

滝本学務課長、校長、教頭、小川、金子各教諭、Aの母親及びBの父親は、二月二六日の原告二郎の要求について、①原告春子の休業補償を出す必要があるか、②教育問題を経済問題にすり替えている、③円満解決は可能性がない、④弁護士問題となる可能性が強いなどと意見を交換し、結局、①いじめとしては認めない、②ナイフ事件は喧嘩であっていじめではない、③翌日原告二郎と会って話し合う以外に手はないとの結論に至った。

三月五日

原告二郎が羽村一中を訪れ、滝本学務課長、校長、教頭及び小川、金子各教諭が対応した。学校側は教育的配慮から解決できないかと訴えたが、原告二郎は、これを拒否し、加害者の親は事実が分かっておらず、誠意がない、借金しても要求された金は支払うべきであるとの考えを示した。その後、原告二郎はAの母親及びBの父親と話し合ったが、議論が平行線のまま終了した。

三月一一日

金子教諭は、原告ら宅を訪問し、卒業式に出席できないかどうか尋ねた。

同教諭はその後、科学技術学園高校にお礼の挨拶に行った。

三月一二日

原告二郎から金子教諭に対し、A及びBの両親と会いたい、Aらの親との話合いはこれで最後にしたいとの電話連絡があった。

三月一三日

午後六時三〇分ころから、羽村一中の校長室において、滝本学務課長、校長、教頭及び小川、金子各教諭立会いの下、原告二郎とAの母親及びBの父親との間で話合いが行われ、慰謝料や休業補償の問題が出されたが、物別れに終わった。

三月一五日(土)

教頭が、篠田指導主事を訪問し、同月一三日の会合の様子を報告した。

三月一九日

金子教諭が、原告ら宅を訪問し、ケーキ、文集及びアルバムを届けたところ、原告らより、学年の先生方に贈るようにとのことで、原告一郎が図案を書いたテレホンカード(五〇度数)一六枚を渡された。

原告春子からA宅へ、卒業式にAが出席することについて恨めしい旨の電話がかかった。

三月二〇日

羽村一中の卒業式が行われ、原告一郎は欠席した。

金子教諭が、原告ら宅を訪問し、紅白饅頭と「清流」(生徒会誌)を届け、原告一郎に対し、学年から図書券、金子教諭からペンケースを贈った。

三月二五日

午後一時三〇分ころ、原告ら三名が羽村一中を訪れ、校長室において、教頭や三学年の担任教諭ら立会いの下に、校長から原告一郎に対し卒業証書が授与された。

(<証拠>)

六その後の出来事

1  羽村駅ホーム事件

原告一郎は、本件訴訟を昭和六一年一〇月一六日、当庁に提起し、そのことが新聞により報道された。同原告は同月二一日、福生警察署に対し、同月二〇日午前七時二〇分ころ、羽村駅ホームで四〇歳代の背広を着た男四、五人に取り囲まれ、「何百万円ももらって解決したのに、裁判を起こすとは何だ。」と言われ、右足を革靴で蹴られ、五日間のけがをし、さらに電車が入る直前、後ろから背中を強く押された旨診断書を付けて届け出た。そして、同六二年一一月一七日放映されたNHKおはようジャーナルにおいて同原告はほぼ同旨の事実を述べた。

しかし、同事件の発生はラッシュ時であったのにもかかわらず、また、犯人らは同原告を知っている人物であるのにもかかわらず、犯人及び目撃者は明らかにはならなかった。

(以上につき<証拠>)

2  高校中退及びその原因

原告一郎は、羽村一中から進学した科学技術学園高校の一年次において、出席すべき日数が二〇五日のところ、七四日間欠席した。同高校では、欠席の理由を「風邪及び登校拒否的傾向」と把握していた。結局、同原告は昭和六二年三月三一日付で同校を中退した。同校においては、右の措置は、「本人の心をどうしても開くことが出来ず、」やむを得ないこととして受け止めた(<証拠>)。

同原告(第一回)は、中退の原因として、同校普通科の教師全員からいじめられたことによると供述しているが、にわかに採用することができない。

七責任原因について

1  安全配慮義務について

原告一郎は、同原告と被告との関係は、教育諸法上の在学契約関係であって、被告は原告一郎に対し契約責任を負う旨を主張するが、公立中学校における生徒の在学関係は、学校教育法及び同法施行令により、保護者の子女を就学させる義務並びにこれに対応する教育委員会の当該生徒に対する就学校及び入学期日の指定により当然に発生するものであって、これを公法上の法律関係であると解するのが相当である。しかしながら、右のようにして成立した公立学校における学校教育関係であっても、学校設置者は心身の発達過程にある多数の生徒を継続的に監督下に置いて教育を施すのであるから、このような特別の法律関係に入った者に対し、教育活動より生じる一切の危険から生徒の生命、健康等を保護すべき義務を信義則上負うのが当然である。

本件において、校長以下の羽村一中の教諭や教育委員などの学校教育の任に当たる者は、被告の補助者としてその職務権限内において、生徒の心身の発達状態に応じ、具体的な状況下で、生徒の行為として通常予想される範囲内において、他生徒にいじめなどの害を与える生徒に対する指導監督義務を尽くして加害行為を防止し、原告一郎を含むすべての生徒に安全に相当な教育を受けさせるべき、いわゆる安全配慮義務があるというべきである。

2  国家賠償法一条に基づく責任について

国家賠償法一条一項の「公権力の行使」とは、国又は地方公共団体の行う権力作用に限らず、純然たる私経済作用及び公の営造物の設置、管理作用を除いた非権力作用をも含むものと解するのが相当である。

そして、羽村町教育委員会委員ら並びに羽村一中の校長及び教諭らは、右公権力の行使に当たる公務員であることは明らかであり、生徒の両親(本件においては、原告二郎及び同春子)に対する関係においても、右1で述べたと同内容の子女に対する生命、健康等の安全を確保すべき義務を負うものというべきである。

3  被告の責任の有無

そこで、以下、被告又はその公務員において右に述べた安全配慮義務ないし安全確保義務に違反した点があったか否かを検討する。

ところで、いじめという問題は、社会の病理現象として少なからず学校にも存在するものと考えられるところ、いじめの原因は、学校のみならず、家庭や社会そのものに存在する要因、被害者の素質等が複雑に絡み合っているものであって、いじめの問題については、学校当局者のみによって対処し得るとは考えられないことなどから、右の義務違反の有無を具体的に検討するに当たっては、単なる理想論を当てはめるのではなく、現実的な学校教育における限界を考慮する必要がある。

なお、原告らは、いじめに対する対策として、各種の措置(例えば、コンピューターの活用、いじめ追放ヴィデオの製作、いじめストップ劇の上演、弁論大会、カウンセリング等々)を挙げているが(最終準備書面七六頁以下)、いつ、いかなる措置を、どのような方法で、とるか、又はとらないかの判断は、教育現場での専門的な裁量権に委ねられている事柄である。

そして、このような場合に安全配慮義務ないし安全確保義務違反があるというためには、その措置をとれば容易に生徒の生命及び健康等の被害の発生を防止することができ、しかもそうしなければ右結果の発生を防止できず、かつ、教育機関において危険の切迫を知り、又は知り得べき状況にあったことが必要というべきである。

(一) 座椅子殴打事件における被告の対応について

前記二2で認定したとおり、座椅子殴打事件は、偶発的なものであって、事後の処理の点をとってみても、適当に事態が収束されており、継続的ないじめの前兆とも認められず、AやBの原告一郎に対するいじめとは性格を異にするものとみるべきであり、この事件に対する学校側の対応や認識には何ら問題はなく、被告に義務違反は認められない。

(二) 飛蹴り事件における被告の対応について

前記二4の飛蹴り事件は、事後的に考えてみると、A及びBによる原告一郎に対するいじめの最初の事件であったと見得るものであるが、右の時点においては、原告一郎自身が本人尋問(第二回)において供述するとおり、継続的ないじめの前兆との様子はなく、右時点において、継続的ないじめが起こることを予測することはおよそ困難であったから、その時点での学校側の対応として、吾郷、金子各教諭が口頭で注意を与えたにとどまったとしても、前記の義務に違反するものとはいえない。

(三) 飛蹴り事件後、ナイフ事件までの間の被告の対応について

前記二8、9で認定したとおり、原告一郎が右飛蹴り事件後、AやBにいじめを受ける度に小川教諭、金子教諭らに報告した事実、ひいてはそれによって、また同原告が「チクッた。」としてAやBにいじめられたという事実は認められず、学校側としてAやBによる原告一郎に対するその後のいじめを発見することは困難であったと考えられるから、この間の学校側の対応についても前記の義務違反は認められない。

なお、学校教師としては、生徒からの報告がなくても生徒に対する観察などからいじめを発見してしかるべきであるとの考え方もあり得るが、原告一郎においていじめがエスカレートしたと供述する昭和六〇年五月ころから同年六月一八日までの短期間にこれを発見し得なかったのはやむを得ないものというべきである。

(四) ナイフ事件における被告の対応について

ナイフ事件以前の原告一郎に対するいじめがあったとしても、前記二9で述べたとおり、同原告から学校側への報告があったとは認められず、ナイフ事件の発生を学校側で予知ないし防止できなかったのはやむを得ないものと考える。

そして、ナイフ事件は、凶器が使用された悪質な事件であるが、前記二7(二)以下で認定したとおり、学校側では、原告一郎から加害者として申告のあったA及びBに対し、数人の教諭が再三にわたって暴力行為をしないよう指導し、学年会等において取組がなされている。確かに右指導の効果には疑問がない訳ではないが、同原告の身体的被害が比較的軽微であり(前記二7(四)及び(七))、その後同原告に変わった様子が見られなかったこと(前記二10(八))等に照らし、学校側の当時の対応について手落ちがあったとは認められない。

(五) ナイフ事件後、登校拒否までの間の被告の対応について

この間のいじめについては、原告らの家庭においても、原告春子が原告一郎にいじめの有無を尋ねるとうるさがられるなどして、原告一郎本人ないし原告二郎及び同春子から学校側への申告もなく(前記二9及び三5参照)、学校側としては、原告一郎がAやBらに継続的にいじめられている認識はなかったものである(前記二10(八)参照)。学校側が原告一郎に対するその後のいじめを認識し得なかった点については全く問題がない訳ではないが、学校側としては、原告一郎とA、Bらの動向を観察していたのであり(前同)、被告又はその公務員に前記の義務違反があったとは認められない。

(六) 登校拒否後の被告の対応について

前記五で認定したとおり、学校側では、原告らのほか、A及びB並びにその保護者、町教育委員会、児童相談所など様々なところと連絡を取り合って、原告一郎の登校拒否を解消すべく努力し、学校内でも、いじめの実態調査アンケートを実施し、校長が朝礼で全校生徒に対しいじめ防止の訓話をするなどしている。

もっとも、その対応が、いじめ問題を抜本的になくすという観点よりは、やや表面的であり、また、卒業が間近いことから進学問題に比重を置き過ぎたきらいも窺われ、理想論からすれば適切な対応がなされたかどうかという点において疑問がないとはいえない。

そして、学校側が、原告らの主張するような前記の各種の措置を実施することは、その効果はいざ知らず、教育的観点からみて有益であったかもしれない。しかし、前述したとおり、いつ、いかなる措置を、どのような方法でとるか、とらないかの判断は、教育現場での専門的な裁量権に委ねられている事柄である。そして、その措置をとれば、原告一郎の登校拒否を必ず解消することが可能であったというような特定の措置があったと認めるに足りるものはない。

あるいは、A、Bの両名を転校させたり、警察に処理を委ねるといった方法も考えられるところではあるが、それによって、原告一郎の登校拒否の理由とするところはまず解消するとしても、登校拒否自体が解消するかどうかはなお疑問なところがあり(前記四及び六2参照)、また、義務教育の最終学年の第二期において、このような措置をとることの右両名に対する影響との間の利益衡量も重要であって、被告が右の措置をとらなかったことを一概に責めることはできない。

八結論

以上のとおり、被告に安全配慮義務違反ないし被告の公務員に安全確保義務違反は認められないから、その余の争点について判断するまでもなく、原告らの請求はいずれも理由がない。

(裁判長裁判官太田幸夫 裁判官清水篤 裁判官成川洋司)

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